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2025/09/11

旭川さんろく街の歴史と魅力|庶民の飲み屋から旭川の夜を彩る繁華街へ

旭川の中心に広がる「さんろく街」。夜になると無数のネオンが灯り、人々の談笑やグラスの音が響き渡ります。ここは単なる飲み屋街ではなく、旭川の都市形成や文化、さらには時代ごとの人々の暮らしや価値観を映してきた場所です。歴史好きの方に向けて、この街が歩んだ変遷を章ごとに丁寧にたどっていきます。

第1章 さんろく街とはどんな場所か

旭川駅から徒歩圏内に広がる「さんろく街」は、居酒屋やスナック、バー、クラブなどが密集する道北最大級の繁華街です。夜になると通りは大小さまざまな飲食店の明かりで照らされ、提灯やネオン看板が一斉に光を放ちます。昼間の静けさからは想像できないほどの熱気に包まれるのが特徴です。

市民にとっては「飲みに行くならさんろく」という言葉が定着するほど生活に溶け込んだ存在であり、観光客にとっても「旭川の夜の観光を知るならまずここから」と言えるスポットです。

第2章 旭川の地の利と“食”の豊かさ

さんろく街の発展には、旭川という街の立地条件が大きく影響しています。北海道のほぼ中央に位置する旭川は、日本海・オホーツク海・太平洋すべてにアクセスしやすく、新鮮な魚介類が豊富に集まります。さらに周囲には肥沃な農地が広がり、米や野菜の名産地としても知られています。寒暖差のある気候は農作物の味を引き締め、質の高い食材をもたらします。

また、旭川は札幌や東京に比べて食材価格が安く、「うまくて安い料理が食べられる街」としての評判を確立しました。その魅力はさんろく街の飲食店にも反映され、地元住民や観光客に愛される食文化の中心地として成長しました。

第3章 ネオンと小路の街並み

さんろく街を歩けば、無数の看板やネオンが夜空を彩ります。「すずらん小路」をはじめとする屋根付きの小路や細い裏路地は、雪の多い旭川ならではの造りで、冬の厳しい気候の中でも飲み歩きがしやすいよう工夫されています。

1990年代には「ツインピラー」と呼ばれるネオン塔が登場しました。緑とオレンジの光で男女を象徴するこの2本の柱は街のランドマークとなり、「ここがさんろく街だ」と訪れる人に強い印象を与えています。夜の散策自体が観光体験になるのも、この街ならではの魅力です。

第4章 軍都時代と料亭文化

旭川はかつて「軍都」として栄え、旧第七師団が置かれていました。将校や商人を相手にした高級料亭が建ち並び、芸者が街を行き交い、座敷では宴が繰り広げられていました。料理の質も高く、旭川は食の都としての評価を高めていきます。

この時代に培われた歓楽文化や接待の形式が、その後のさんろく街の基盤となりました。軍都の歴史があったからこそ、旭川の繁華街は独自の発展を遂げることができたのです。

第5章 狸小路の誕生

戦後復興期の1950年代半ば、「庶民が気軽に飲める場所を」との思いから、吉田松之助が現在の4条6丁目付近に小規模な飲食エリアを作りました。札幌の繁華街に倣い「狸小路」と名付けられたこのエリアには、おでんや焼き鳥を提供する店が並びました。

芸者遊びが主流だった時代に、庶民が立ち寄れる大衆的な飲み屋街は画期的でした。サラリーマンや若者が仕事帰りに集まり、一杯の酒を片手に語らう姿は、旭川の夜に新たな文化を築きました。

ちょうど全国で洋酒ブームが広がり、「トリスバー」「ニッカバー」が流行した時代。旭川の狸小路にも洋酒バーが現れ、和と洋が入り混じる独特の雰囲気を作り出しました。これが後のさんろく街発展の基盤となったのです。

第6章 高度成長と繁華街の拡大

1960年代、日本全体が高度経済成長を迎えると、旭川の街も活気に包まれました。さんろく街では雑居ビルの建設が進み、1つの建物に数十軒の店が入居するスタイルが一般化。夜の街はさらににぎわいを増しました。

居酒屋、小料理屋、クラブ、ジャズ喫茶、カラオケスナックと、業種は多様化。看板が増え、夜はまるで昼間のように明るく照らされるようになりました。旭川市民は「今日はどの店に行こうか」と胸を躍らせながら、夜ごとさんろく街を歩いたといいます。

第7章 さんろく街の黄金期とその後の衰退

1970年代から80年代、さんろく街はかつてない黄金期を迎えていました。木材産業や建設業の好況、官公庁関連の需要に支えられ、旭川の経済は潤っていました。街には夜ごと多くの人が繰り出し、タクシーが行列をつくり、クラブやスナックはどこも満席。華やかなネオンの光は、旭川の繁栄を象徴するものでした。バブル期には豪華なクラブやキャバレーが次々と登場し、シャンパンの音やドレスアップしたホステスの姿が「豊かさの象徴」として記憶されています。

しかし1990年代に入ると、状況は一変します。バブル崩壊による経済の停滞は、さんろく街にも直撃しました。木材業や建設業の縮小に加え、接待文化そのものが弱まり、会社員の飲み会や大人数での宴席も減少しました。さらに、郊外に大型ショッピングセンターや居酒屋チェーンが進出し、若者や家族連れの利用が郊外へ流出していきます。

その結果、さんろく街の店舗数は減少し、空きビルや老朽化した建物が目立つようになりました。夜の人通りも少なくなり、かつての熱気に包まれた光景は次第に薄れていきました。治安や防災といった課題も浮上し、黄金期の繁栄を知る人々にとっては、街の変化を痛感させる時代となったのです。

それでもなお、さんろく街は「旭川の夜の象徴」であり続けています。華やかな過去とともに、現在も祭りやイベント、そして飲食文化を通じて街を支える存在であり、未来へつながる新しい方向性を模索しているのです。

第8章 さんろくまつりの誕生

1980年、「さんろくまつり」が始まりました。会場となったさんろく街の通りには、700を超える提灯がずらりと並び、提灯の明かりが夜の街を幻想的に照らし出しました。メイン会場には特設ステージが設けられ、歌謡ショーやバンド演奏が繰り広げられると、昼間から夜遅くまで大勢の人々で賑わいました。普段は夜の歓楽街として知られていたさんろく街が、このときばかりは昼間から世代を問わず楽しめる「祭りの舞台」へと変わったのです。

この祭りは、夏の終わりになるとどうしても人通りが減ってしまうという課題を解消するために企画されました。地元の飲食業者や観光関係者が協力し合い、「にぎわいを取り戻そう」という思いが形となったのです。初年度から多くの市民や観光客が訪れ、その熱気は想像以上の盛り上がりを見せました。

以後、さんろくまつりは毎年夏に開催される恒例行事となり、年々規模を拡大していきます。祭りの内容も、歌や演奏だけでなくパレードや飲食屋台、さらには旭川の名物料理を楽しめる企画などが加わり、旭川市全体の夏の観光を盛り上げる存在へと成長しました。現在では「旭川夏まつり」と並んで市民に広く親しまれる大イベントとなり、さんろく街を象徴する夏の風物詩として定着しています。

第9章 女神輿と“本当の祭り”へ

1980年に始まったさんろくまつりは、その後も工夫を凝らしながら規模を拡大していきました。1980年代後半には、ただの夏のイベントにとどまらず、「旭川を代表する祭り」として注目されるようになります。しかし、一方で「毎年同じ内容では新鮮味に欠けるのでは」という声も聞かれるようになり、より本格的な祭りらしさを求める動きが出てきました。

こうした流れの中で、1990年代に入ると神輿行列が登場します。旭川夏まつりの一部として行われていた「大雪連合神輿」がさんろく街の会場を通過するようになり、その迫力ある姿が観客の目を引きました。ネオンきらめく歓楽街を練り歩く神輿は、これまでになかった熱気を祭りにもたらし、「さんろくまつり」に新しい息吹を与えたのです。

さらに1994年には、さんろくで働く女性たちの有志によって神輿を担ぐ企画が実現しました。当初は一度限りの取り組みでしたが、想像以上に盛り上がりを見せたため継続され、翌年には「華酔会(かすいかい)」という女性グループが結成されました。そして1997年には宮大工によって専用の「女神輿」が完成し、上川神社で天照大神の御札を納める儀式も行われるようになります。これにより、さんろくまつりは単なるイベントから「御神体を持つ本格的な祭り」へと位置づけが変わっていきました。

神輿や女神輿の登場は、さんろくまつりにダイナミックな動きを加えると同時に、地元住民の祭りへの愛着を一層深める契機となりました。現在も毎年、多くの観客がこの神輿行列を楽しみに訪れ、さんろくまつりを盛り上げています。

第10章 ラーメンフェスティバルの誕生

1997年、さんろくまつりに新しい名物企画が加わりました。それが「ラーメンフェスティバル」です。当時、全国的に「旭川ラーメン」の知名度が高まっており、観光客にとって旭川の食文化を体感できる絶好のコンテンツと見なされました。旭川観光社交組合の呼びかけに応じ、市内の有名ラーメン店が多数出店し、さんろく街の会場に屋台を並べました。

来場者は食券を購入し、複数の店の味を少しずつ食べ比べられるシステムが導入されました。例えば1,000円でハーフサイズのラーメンを3杯味わえるスタイルは大好評で、普段なかなか訪れない店の味に触れられるとあって、多くの人が列を作りました。

ラーメンフェスティバルは、単なる「食の出店」以上の意味を持ちました。参加店舗にとっては、自店をPRする格好の場となり、来場者にとってはお気に入りの一杯を見つける機会となったのです。また、運営側にとっても食券販売や出店料が資金源となり、祭り全体の継続性を支える重要な要素となりました。

こうしてラーメンフェスティバルは、旭川ラーメンという地域ブランドを全国に発信する役割を果たし、さんろくまつりを一層盛り上げる柱のひとつとして定着しました。今では多くの観光客が「神輿」と並んで楽しみにする恒例企画となり、さんろく街に昼間から人を呼び込む大きな要因となっています。

第11章 現代の取り組みと新しい風

現在のさんろく街では、かつての華やかさを取り戻しつつ、安心して楽しめる街づくりに向けたさまざまな活動が行われています。まず取り組まれているのが環境美化と安全対策です。イベントや祭りの際にはごみ分別を呼びかけるほか、地域団体による清掃活動が定期的に行われています。また、防犯カメラや街灯の設置が進み、夜でも安心して歩ける環境づくりが整えられつつあります。老朽化した看板や建物の改修、照明のLED化なども少しずつ進み、街全体の景観も改善されてきました。

一方で、観光資源化の流れも加速しています。旭川市や観光協会と連携し、さんろく街は「旭川観光の夜の顔」として紹介されるようになりました。近年、ホテル主催や地元団体の企画として、『はしごラーメンツアー』や『地酒はしご』といった“食べ歩き”や“はしご酒”体験型の企画が見られるようになっており、観光客が気軽に立ち寄れる仕掛けが増えています。外国人観光客に対応するため、多言語表記のメニューを導入する飲食店も目立ち、国際色豊かな街へと進化しています。

また、イベントの多様化も特徴です。夏の「さんろくまつり」を軸に、音楽ライブや食イベント、ラーメンフェスティバルなどが開催され、季節ごとに新しい楽しみを提供しています。近年ではSNSを活用した情報発信やスタンプラリー、はしご酒企画なども加わり、複数の店舗を回遊してもらう工夫がなされています。

祭り期間中には、主催者や有志による清掃ボランティアが行われ、終了後には大勢の参加者が街の美化に取り組む姿が見られます。年によっては100名を超える参加があった記録も残っており、祭りを楽しむだけでなく「自分たちの街を自分たちで守る」という意識が根付いてきたことを示しています。

また、女みこし〈旭川華酔会〉では毎年担ぎ手を公募しており、10代から60代まで幅広い年代の女性が参加しています。世代を超えて力を合わせ、華やかに練り歩く姿は祭りの大きな見どころとなっています。

さらに、同時期に開催される旭川夏まつり関連の催しでは、高校生や大学生のボランティア参加が公式に案内されており、こうした動きはさんろく街の祭りが単なる娯楽の場にとどまらず、地域と多世代をつなぐ役割を果たしていることを物語っています。

さらにキャッシュレス決済の導入や昼飲み対応の店舗の増加など、ライフスタイルの変化にも柔軟に応える街へと変わりつつあります。

こうしてさんろく街は、昭和の面影を残しながらも新しい風を取り込み、伝統と変化が同居する繁華街として進化を続けています。

第12章 未来へつながるさんろく街

軍都の歴史に根ざした料亭文化に端を発し、戦後の狸小路の誕生、そして高度経済成長やバブル期の繁栄を経て、さんろく街はその時代ごとの社会や経済の変化を映しながら姿を変えてきました。

現在も、昭和の名残をとどめる老舗と、新しいスタイルを取り入れた店舗が共存しています。環境美化への取り組みや多言語対応、キャッシュレス決済の導入など、観光客を意識した工夫が増え、国際的な顔も見せるようになりました。さらに、音楽イベントや食の催しなど新しい娯楽を提供する動きも広がり、街に再びにぎわいをもたらしています。

さんろく街は、旭川の「夜の象徴」であると同時に、地域文化と観光を結びつける拠点でもあります。伝統と革新が交錯するこの街は、これからも旭川の夜の観光と繁華街文化を支え続け、次の世代へとその魅力を受け継いでいくでしょう。

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